2014.10.03 日光:竜頭の滝の紅葉(その2)







遊歩道の頂上付近が近づくと、視界が効かなくなってきた。上側のR120の橋から見る景観を壊さないように、川沿いの木々を残すように遊歩道が作られているようだ。(…というか、ここが往時の修験者の道の筈なのだが)




よっこいしょ…と腕を伸ばしてシャッターを切っては見るのだが、ぎりぎり川面が見えるくらい。やはり最大の見どころは先ほどの展望スペースということになるのだろう。




やがて遊歩道の上端に達した。戦場ヶ原にむかうR120と交錯して散策エリアは終わっている。

道路に枯れ葉が散っているのは黄葉系のブナらしい。駐車場周辺には桜もちらほら見える。いずれも楓よりも早く色付く樹種で、これらが色付き始まった時点を "紅葉シーズンの始まり" と捉えると、奥日光の紅葉はずいぶんと早くに始まることになる。

…が、ニュースで 「見頃です」 と情報が流れるのはやはり 「楓の赤」 が立ち上がってからなのである。このあたりは人によって感じ方が大幅に異なり、なかなか境界判定が難しいところだ。




よくみるとブナにも楓の赤ほどの明瞭さはないものの、川沿いにある木のほうが早めに黄葉(褐葉か?^^;)して葉が落ちてしまう傾向があるようだった。




それが川から数十m離れると青々とした個体が増え…




それに桜(ソメイヨシノではないっぽい?)がいくらか混在し、赤く染まっている。

ざっと見渡してみると、紅葉の序列としては 桜 → ブナ → 楓 という大雑把な色付きの順位が見て取れる。それがさらに、川(滝)からの距離でグラデーションを形作りながら広がっている。なんとも不思議な光景だ。




さて上端部の橋から竜頭の滝を見下ろしてみた。これを見て筆者はかなり確信めいた所感をもったのだが、やはり紅葉の色(赤系)が明瞭に出ているのは川沿いギリギリに生えている木々ばかりだ。どうやら水との距離感というのは、葉の色付き具合にかなり決定的に効いているらしい。



竜頭の滝は湯川の比較的穏やかな流れの中でも特に水しぶきの激しく立つところであることを勘案すると、やはり局所的な気中水分量の潤沢さと、それにともなう気化熱による打ち水効果…と思うのが素人的には理解しやすい。そこにさらに根からの潤沢な給水を原資とした蒸散冷却なども加えるともっともらしい理屈ができあがるのだが…いずれにしても実測データが無いので、現状では屁理屈みたいなものだな(笑)




それにしても紅葉という現象は面白い。普遍的な原理原則がある一方で、ローカルな要因でいとも簡単にオフセットが乗る。そしてそれが色の帯として目で捉えられる。風流の切口で眺めるも良し、気象現象の投影として眺めるも佳(よ)し、なんとも奥の深い題材だと思う。



さてせっかくなのでもう少し上流側にも行けるのかな…と思ってみたのだが、ここから先の遊歩道は川筋から離れたところを通って戦場ヶ原にむかって伸びていて、あまり美味しいコースではない。本日は時間もないことだし、無理はしないでこのあたりまでとしておこうか(^^;)




 

■ 地獄茶屋




さてふたたび遊歩道を下って駐車場に戻ってきた。クルマで90kmも走って来たのに歩いたのはたったの600mかよ!…とセルフツッコミを入れたくもなるのだが(笑)、さすがにそれだけだとちょっと寂しいのでここにある茶屋について少し書いてみよう。




入口には "瀧見台" と書いてあるのだが、ここの正式名称は地獄茶屋である。江戸時代中期、およそ270年ほど前の創業だといい、神仏分離令が出る以前の "まるごと全部日光山" 時代からここで茶屋を営んでいる。一見すると単なる売店だけれども、実はここはそれ自身がすでにひとつの歴史価値をもっている "文化遺産級の茶屋" だったりするのだ。




日光山は現在では輪王寺/二荒山神社/東照宮に分離してしまっているけれども、もとは勝道上人の日光修験に鎌倉時代になって熊野系の密教(真言宗)が加わり、さらに江戸時代に天台宗が入って東照宮として栄華を誇った。この茶屋は、そんな密教(修験)王国の山中で人々の拠り所となって、長く続いてきたのである。




蕎麦を食いながら筆者は店の主人氏に 「こんな修験者ばかりの山中でよく茶屋の営業が成り立ちましたね」 と聞いてみた。

山岳修験というのは山の神から超人的な霊力を授かるためにギリギリまで身を削って修行するストイックな世界で、命がけで苦行している行者たちが茶屋で呑気にダンゴやら蕎麦やらを頬張っている姿というのを、筆者はなかなか想像できなかったのである。




主人氏は 「いや当時のうちのお客さんは、山仕事に入る人だったんですよ」 と仰った。聞けば東照宮には坊さんや修験者ばかりがいた訳ではなく、その経済を支える封戸(神人)がいて、彼らはここ奥日光では山仕事をして東照宮に仕えていたらしい。その実態はいまひとつよく分からないのだが、おそらく杣人とか猟師みたいなものだろうと筆者は想像している。

ここ竜頭の滝は地形的には中禅寺湖から戦場ヶ原に抜ける回廊のような立地で、山仕事で奥地に向かう人が必ず通るところだった。奥日光で人が常駐していたのは中禅寺の近辺を除けば湯ノ湖のほとりにある元湯温泉くらいだったそうだが、竜頭の滝はちょうどその中間付近にあって距離的に頃合い良く、滝もあって景観も優れることから、休憩所=茶屋が成立したのだろう。




江戸時代に書かれた日光山志にはこの茶屋について以下のようにある。


【地獄茶屋】
中禅寺別所の邊(へん)より湖水に従ひ凡(およ)そ一里余ゆきて往来橋を越えて其の上にあり 名付くるところは此の茶屋より東に当り男躰山乃麓に洞穴有りて窟底乃深さ知られざるゆゑ土人地獄穴(とじんじごくあな)と呼びたり そのあたり近きゆゑ竟(つい)に地獄の茶屋と唱ふ 此処は湯元まで程遠かれば旅人中休の為に設く



原文だと変体仮名が物凄く読みにくいのだが(^^;)、なんとか文字起こししてみた。土人地獄穴というのは現在ではどこにあるのか分からなくなっている(→茶屋から東に行く道というのがそもそも失われている)のだが、地形的に地獄川の上流側の谷筋がいかにもな窪地になっていて、もしかするとこのあたりに洞窟でもあったのかもしれない。




茶屋からは滝の最下段部がよく見える。まるで絵にかいたようなポジションで二股に分かれた滝が落ちており、この風景を肴に休憩の茶を頂くのである。往時の杣人たちも、ここで滝を見ながら風流の時を過ごしたりしたのだろうか。



さて茶屋には、隣接して観音堂があった。もとは日光山内の拝所のひとつであったようで、祀られているのは三十三の化身を持つという観音菩薩の姿のうちのひとつ、龍頭観音である。滝の名はここから取られている。

観音菩薩(観自在菩薩)は密教の代表的な経典、般若心経の冒頭に登場する。曰はく 「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」 とあり、その意味は 「観音菩薩は深い知恵を得るための修行を行っているとき、五蘊(人間を形作る5つの要素)がいずれも本質ではないと見極めて一切の苦しみを取り除いた…」 というものだ。このお経は真言宗/天台宗いずれにおいても中心的な位置を占め、もちろん日光修験に於いても同様であった。



日光修験は神仏混淆といいながらも実態としてはかなり仏教寄りで、ほとんど密教と重なっている。その中でも観音菩薩のウェートが大きく、日光の主峰男体山はその化身のひとつ千手観音になぞらえられている。神道の立場から見ればこれが大巳貴命となるのだが、江戸時代以前は仏教色のほうが優勢で、基本的に日光は観音様ワールドと思って差し支えない。そのような文脈のなかで、この竜頭の滝は拝所のひとつとして機能し、休憩所も設けられて紅葉の見所とされたのである。

そういうトリビアをかじりながら眺めると、この竜頭の滝は結構な面白味をもって眺められる筈なのだが、しかし現在では観光客はストレートに滝とか紅葉を見に行ってしまって観音堂は素通りに近い(^^;) 本来の滝の主はこの観音様なのに、なんとも微妙なことになっているのだなぁ…!




とはいえ、かくいう筆者も本日は紅葉一点に絞ったピンポイントアタックなので、あまり世間のミーハー観光客の皆様に偉そうな顔はできない(笑) 時間があればもう少し突っ込んだ探訪が出来たかもしれねいけれど、まあそれは次回以降のお楽しみとしよう。

…ということで、えらく中途半端だけれども、今回はこの辺までとしておきたい。

<完>





■ おまけ




…まだ続くのかよ! …など言われそうだがもう少々(笑)

実はこの後、戦場ヶ原にも瞬間的に Hit & Away してきたので追記しておきたい。既に西日が傾いて微妙にガスってしまっていたけれど、草紅葉はイイカンジで染まっていた。日が高いうちならもうちょっとマシな写真が撮れたかもしれないが、まあそこはそれ。




黄葉はぼちぼちといったところであった。これ(↑)は楓よりも早く色付いてさっさと散ってしまう系の白樺である。戦場ヶ原には赤色に染まる木というのは少なく、草紅葉と黄葉が主のフィールドだ。紅葉チェッカーでみると≦8℃が累積12日くらいでこの写真程度の色合いになっていた。




男体山を見上げるとこんな感じで、赤色よりは黄色が主体であった。赤の立ち上がりは、来週以降中禅寺湖畔の紅葉が進んだ頃になりそうかな(^^;)


<おしまい>