2016.02.14 常陸〜房総周遊記:鹿島編(その3)




■ 奥宮




さて読み返してみると今回はずいぶんややこしい話を書いてしまっている気がするな(^^;) 少し反省して文章を軽くしながら進んでいこう。途中で鹿園とかさざれ石などの見どころはあるのだがそのへんは省略してゆるゆると行く。




やがて奥宮に到着。

…おお、なかなかに神寂びていい感じだ。まさに古色蒼然。筆者的には、神社というのはあまりキンキラキンに飾らずにこのくらい自然に溶け込んでいる方が美しいと思う。




かつて海水面が高かった時代には、奥宮下の御手洗池のあたりに渚があり、現在の奥宮が本殿で、さらにその奥にある要石のところに元々の奥宮があったと言われている。神社の構造からいうとこちらの位置関係のほうが自然でわかりやすい。



渚の位置が変わったのは、鎌倉時代になって世界的に気候が寒冷化し海面が下がったことが影響している。この寒冷な時期は江戸時代いっぱいまで続いた。この時期に香取海は干拓が進んで海面すれすれの水田地帯=水郷になっていった。




…が、筆者的には古代史的なロマンがあるのは渚の位置の高かった平安期だろうと思うので、その視点で奥宮周辺を見てみたい。そんなわけで御手洗池方面に降りてみる。ここがかつての参道である。海岸段丘を下る道なのでやや傾斜はきつい。




斜面を降りる道はおよそ200mほど。すぐに小さな平地が見えてくる。海面が高かった頃はここに小さな渚があった。内海であるから、おそらくは殆ど波の立たない砂浜であっただろう。




渚の崖面には湧水があり、小さな池に注いでいた。

ここが御手洗池で、かつて船でやってきた参拝者はこの水で身を清めてから神域に入ったという。一般の神社で言えば手水舎に相当するもので、こういう自然の湧水や河川をそのまま利用するのは実は非常に古い形態である。

※ここではかつては池に溜まった水に身体ごと浸った。…ということは、手水舎というより沐浴施設に近いといえるかもしれない。



その湧き口が、池のすぐ背後にあった。現在はこんな風に整備されてしまっているけれども、かては浜を流れ下る小川になっていたと思われる。筆者は昨年見た松前の風景を思い出した。




池の先には100mほどの散策エリアが整備されている。土壌は砂に腐葉土の混ざったような質感で、元は砂浜であったことが伺える。




奥宮側の鳥居は震災で倒れて失われたままになっていた。倒れたときに石畳が損傷した跡が生々しい。歴史的には表参道よりもこちらのほうが重要な気がするのだが、大人の事情で修復は後回しになってるようだ。




鳥居跡の先で、神宮の敷地は尽き、その先はゆるやかなスロープで住宅街が続いていた。かつてはここから先が海であった。実は筆者は今回、ここを見たくてやってきたのである。

今では海岸線は遠く引いてしまい、2.5kmほども先にすっかり淡水化した北浦の護岸があるばかりで、この入り口も単なる裏門として扱われている。しかしここは紛(まぎ)れもなく、神宮草創期の蝦夷討伐がさかんに行われた頃の正門なのである。出征する兵は鹿島神宮に参拝してから旅立つのが習わしで、こうして覚悟を決めて戦地に赴くのを "鹿島立ち" などと言った。




そんな往時を偲んで、かなりわざとらしい絵になってしまうけれども(笑)ここに海があったら…という風景を合成してみた。現在の地形から類推するに、小さな桟橋くらいはあったかもしれないけれども基本的には砂浜に乗り上げるかたちで船を付けたのだろう。遠浅の地形なので潮の干満で波打ち際は大きく変動したにちがいない。




現在の壮麗な楼門や拝殿、本殿が整備されたのはほぼ江戸時代である。かつての神宮は、もっと簡素で素朴な海浜の社であったと思われる。それがどんな姿であったのか、具体的な手掛かりは今ではほとんど得られないけれども、すこしばかり想像の自由とやらを駆使して夢想してみた。

…こんなエントランスで上陸する神社があったら、是非とも訪れてみたいものだ。



 

■ 要石(かなめいし)




御手洗池を後にして、最後に奥宮のさらに奥にある 「要石」 を目指してみた。ミーハーな観光ガイドには "珍スポット" 的にしか扱われていなかったりするけれども、実は一番重要なところではないかと筆者は思っている。

参道は小奇麗に整備されている。相変わらず真冬なのに照葉樹林は緑でいっぱいで、季節感に妙なものを感じてしまうのだが、まあそこはそれ(^^;) たださすがに人口密度は少ない。こんな奥深くまで歩いてくるのは、よほど信心深い善男善女か単なるスキモノか、どちらか両極端だろう。




ここが重要ポイントだと思うのにはもちろん理由がある。現在の鹿島神宮の神域は近代開発の波に呑まれて随分と削られてしまっているのだが、それでも1km四方くらいの広さを保っている。そしてその神域=原生林に近い杜(もり)の中心付近にあるのは、現在の本宮や奥宮よりも、むしろこの要石の方なのである。




…つまり、ここを守るように杜(もり)は残された。歴代の鹿島郡の支配者もここには手を出さず、何事のおはしますかは知らねども鎮まり給え払い給え清め給え…の要領で扱った。千年以上にも亘(わた)るその積み重ねを、我々はあまり軽々しく捉えるべきではない。




さて御手洗池から400mほど進んで、鳥居と囲いのある一角に至った。間違いなく善男善女に入るであろうご老体が丁寧に参拝されていたので、邪魔をしないように小休止、一呼吸おいてから近づいてみた。




これが、要石(かなめいし)である。位置的には現在の奥宮が本宮で会った頃の奥宮(ややこしい ^^;)に相当しており、現在でも信仰の対象になっている。

ただ現在では神様というよりも地震を押さえる霊所という理解のされ方をしている。何の予備知識もなくこれを見るとその小ささに拍子抜けしそうになるが、地下に埋もれている部分は巨大で、これが地震の霊である鯰(なまず)を抑え付けているという伝承がある。それ以外にもいろいろあるのだが…まあ、面倒なので割愛しよう(…いいのかそんなので ^^;)




伝承のうちもっとも古いものは、かつて神の降りる岩倉だったとするものらしい。鎌倉時代の歌人:葉室光俊(1203-1276)の歌に

尋ねかね今日見つるかな
ちはやぶる深山の奥の
石の御座(みまし)を

というのがあり、万葉集にある石の御座というのがこれなのかと感動して詠んだ云々…とある。 ただ筆者のヌルい調査ではこの万葉集の元歌というのがどうにも見つからないので、 まあ西暦1200年代には伝説化していた程度の時代性なのだな…くらいに思うこととしたい。

筆者的には、関東の支配権が大和朝廷に集約していく途上、記紀神話の神であるタケミカヅチの名前で上書きされる前のオリジナルの鹿島の土着神がここに祀られていたのではないか…と思っている。 神社としての構造上、そう考えると非常にすっきりするのである。




草創期の神宮の姿については、奈良時代に書かれた常陸国風土記(養老五年:721年頃成立)をひも解くと断片的な記載がある。

「淡海の大津の朝(天智天皇の代:668-672)に初めて使人を遣して神の宮を造らしめき」 というもので、神領(鹿島郡)の設定は二代前の孝徳天皇の己酉(649)の年に行われているので、ここから初期の鹿島神宮が社殿を持たない古い形の神域であったことが伺える。

そしてこの風土記には、祀られている神の名前が具体的には書かれていない。単に "鹿島の天の大神" とされていて、天津神の一員ですヨと述べているのみである。タケミカヅチ神の名が登場するのは平安時代に入って朝廷の祭祀についてまとめられた古語拾遺(807)が初見で、神領設定から実に百年以上が経過してからであった。

※写真は常陸国風土記(秋元吉徳/講談社/2001)p116の引用




このあたりには、いろいろな想像と検証の余地がある。しかし今ではもうインスタントに真相を知る術(すべ)はない。

1000年単位の時の流れというのは途方もなく、鹿島の神が祀られた大目的=東北平定も遠い過去の出来事となった。社殿はどんどん大きなものに作り替えられ、また神宮の前庭であった香取海は消滅して風景はまったく変わってしまった。すべては流転し、ひとつところに留まることはない。

…遥かに古い原初の神の記録など、言わずもがなである。




そのあたりについてもう少し考察してみたかったけれども、気が付けば日が傾いていた。

…ありゃ、これでは香取神宮を訪ねる余裕がなくなってしまったな(^^;)  まあ仕方がない、これだけ広い境内なのだから突撃観光でハシゴをするよりもじっくり堪能したほうがよいと考えることにしよう。そのうちまた来れば良いのだ。





■ 利根川河口 〜銚子の印象〜




さて1日目のレポートはこのあたりで終わるのだが、せっかくなので利根川河口から見た旧香取海の残滓の様子をちょこっとだけ書いておきたい。

…というつもりで当初は鹿島の海岸線を南下していったのだが、肝心のおいしい砂州の突端部はキャンプ場になっていて、利用者以外は進入禁止となっていた。

うーむ、なんという資本主義の悪癖…( ̄▽ ̄;)




仕方がないのでぐるりと迂回してR124に乗り、銚子大橋経由で銚子側に出た。もうかなり暗くなってしまって、おいしいトワイライトの時間帯は終わりつつあったが、まあ利根川を望むポイントではある。




ダメモトで Nikon D750 の感度に任せて 「えいっ」 と撮ってみたところ、銚子大橋の夕景をなんとか収めることができた。

ここで川幅は約1.2kmである。山国の住人である筆者にはこれでも十分すぎるほどに広いのだが、かつての香取海はもちろん遥かに広かった。モノサシのスケールが違いすぎて 「とにかく大きいんだヨ!」 という以外に表現のしようがないのがアレだけれども(笑)




さて宿に入ってTVを見ると、どうやら今日は春一番が吹いたらしい。
明日は…えっ、また荒れ模様なの?(^^;)

まいったなぁ…明日からはお気楽なドライブ紀行をするつもりなのにw


<中編につづく>