2017.05.05 続:那須疎水を訪ねる

                       〜第二分水を行く〜(その3)




■ 沓掛 〜 那須塩原駅




埼玉でいったん分散した第二分水の水路は飛行場跡地を過ぎるとふたたび集約されて沓掛(くつかけ)を流れ下っていく。上図ではかなり整理して描いているけれども本当に網の目のように散っているので追いかけるのは結構大変だ(^^;) ざっと見たところ埼玉地区を抜けて下流側に流れてくる水路はラーメン屋 「さくら」 の前で合体して、以降は一本水路として下っている。




さてこれは沓掛新田公民館のあたり。那須疎水と並行して走っている道路は国土地理院の地図を見ても名前が載っていないが地元では沓掛街道と呼ばれている。新幹線開通に伴って作られた那須塩原駅前道路(r53)と異なり、ここは江戸時代からある古道である。




戦前には未舗装の3m道路でしかなかった沓掛街道は、いまやクルマの対面通行できる6m道路に拡張されている。しかし路肩はぎりぎりのスペースしかなく、それでは学童の通学に不便だというので、疎水を暗渠(あんきょ)にしてその上を歩道にした。

こんな扱いでは分水するときに不便じゃないの・・・とツッコミがありそうだが実はそうでもない。ここはもう那須東原開墾社のテリトリーを外れており付近の農家には水利権は無い。つまり水は流れていても使うことはできないのである。




では周辺に広がる農地はどうやって水を確保しているのかといえば、モーター小屋で地下水をくみ上げて使っているところが多い。特に戦後の食糧増産ブームの頃、昭和30年前後に地下水を利用した水田耕作が広がって、那須疎水の賄(まかな)えるキャパシティを越えた農業が実現している。ここはそういう地区なのだ。




やがてJR那須塩原駅に近くなり、新興住宅街が広がり始める。市街地では那須疎水は暗渠になって道路下を流れていく。




古い地図では那須疎水第二分水は沓掛からほぼ真っ直ぐに駅東側を突っ切って南下していくように描かれている。現在では区画整理が行われて、農業用水路の引き回しも道路に沿った形で改修された・・・筈なのだが、どうにも資料がなくて詳細がわからない。

そこで現場をぐるぐる回って 「こんな感じ?」 というのを上図の点線区間として表記してみた。もしかすると引き回しが一部異なるかもしれないが、新しい情報が得られたら更新することとして、今はこの形で載せておきたい。




新幹線の高架橋をくぐる直前、防災公園の南端で那須疎水は一瞬だけ姿を現す。




見れば管理用の水門があって、水路が分岐している。

といってもこれは農業用水のための分岐ではなく、防災用の排水口のようだ。写真奥側の芝地は防災公園になっていて、その向こう側には幅100m、奥行き180mの巨大な遊水地(普段は水は無い)がある。1998年の集中豪雨で那須疎水は水が溢れた実績があるので、おそらくそれを教訓に区画整理の際に整備されたのだろう。第二分水でこのような施設があるのはここだけである。



 

■ 東北本線(東北新幹線)を越える





さていよいよ東北本線(東北新幹線)を越えて、那須塩原駅の東口側に抜けてみよう。




那須塩原駅の前身となった東那須野駅は国道4号線側に向いた東口が正面であった。東北新幹線が開通する以前は「駅前」といえばこちらの東口を指した。便宜的に地図(↑)では旧市街と記しておこう。

駅前の町割りはちょっと特殊で、駅前道路が駅の正面真っ直ぐではなく、斜めに走っている。これは東那須野駅の開業(明治31年)よりも那須疎水開通(明治18年)のほうが早かったので、先にできた第二分水が基軸線となって町割りが行われたためだ。沓掛でいったん離れた水路と道路が、ここではちょうど重なって市街地に取り込まれている。




現在では疎水は道路に包含されて真下を流れている。この写真(↑)の道路の右側半分(アスファルトの色が違う)がその部分で、かつての並走道路はせいぜい道幅2〜3mであったことが伺える。




疎水は道路と一体となって続いていく。

同じようなことの繰り返しになるけれども、この駅前集落もまた那須疎水の水利権は持たなかったから、水はただ流れ下るばかりであった。ゆえにここには農家は育たず、代わりに駅に依存して製材所(※)と駅前商店街が育った。

集落の飲用水は井戸水を使用した。この付近は地下水の水位がだんだん浅くなってきて6〜7メートルも掘れば水は確保できた。農業用水につかうほどの量は確保できないものの、飲用水くらいならそれで間に合ったのである。

※ここでは周辺の山林から杉や檜の丸太材をあつめて製材し、鉄道で首都圏に運んでいた。製材所は昭和40年代まで存続し、現在の大田原信用金庫付近に材木の集積場があった。




 

■ 分離する疎水と道路




さてそのまま線路から400mほど南下したところで第二分水は国道4号線と交差する。道路と水路が並走するのは、ここまでだ。




この4号線から先は水路と道路が分かれてしまい、追いかけるのは容易でなくなってくる。

そもそも水路と道路の最適ルートというのは一致しない。水路はあくまでも土地の高低差に応じた引き方が原則になるし、道路は一般に集落と集落をむすぶように造られるからだ。




那須疎水に依存する第二分水上流側の地区では、「開拓」 という特殊な条件下でそれらが一致していた。まず水路に沿って開拓集落が発生し、道路もそれに合わせて造られたためだ。こういう環境では、道路と水路が並走しやすい。

しかし下流側、それも水利権のない地区ではその原則はあてはまらない。・・・まあ、そのぶんを気合で補いながら、追っていくこととしよう。



 

■ 沼野田和〜木曽畑中




さてさらに下って沼野田和(ぬまのたわ)付近にやってきた。このあたりで全コースの半分くらいなのだが・・・まだまだ先は長いな(^^;)




話がマンネリになるといけないので、ここで少しタイムスリップしてみよう。明治42年の1/50000地図をみるとこの付近は針葉樹林(杉)と広葉樹林(雑木林)が点在しており、水田の地図記号はみられない。水利権もないわけだし実質的には雑木林と草地みたいなところだったのだろう。

地図右下の富池〜吉際(ここはもう大田原市域)のあたりからぼちぼち水田の記号が見えだすけれども、この付近から下流側は自然の湧水が得られる地区である。




・・・ということで、ありていに言えば水利権がなく自然湧水も得られない沓掛〜東那須野(駅前)〜沼野田和〜木曽畑中の5kmくらいの区間が、ちょうど第二分水の沿線にあって取り残されたような形になっていた。




それらを踏まえて現在のモーター小屋が点在する水田風景をみると、なかなかに感慨深いものがあるな。




那須野ヶ原の開拓は、その端緒においては国の予算を引っ張ってきて大規模な用水(那須疎水)を引くことで華々しく始まった。しかしそこから零(こぼ)れ落ちた人々もたしかに居て、福音はなかなか及ばなかったのである。

それが "電化による地下水利用" というインフラの転換で、昭和30年代になってようやく水の潤沢な供給を得て、この風景が成立した。素人目には同じような田んぼが連続しているようにみえるかもしれないけれども、そこに沈殿している歴史の層の重なりは、地区ごとにまったく異なっている。




さて話を疎水の流れにもどそう。

那須塩原駅を過ぎ、沼野田和付近から下流側では、水門などの流量コントロール施設がほとんど見られなくなる。段落ち構造もなくなって、ただの用水掘といった感じだ。なんだか、勤勉さは埼玉地区で使い果たしました・・・というくらいの安普請になっていく(^^;)




それには多少の理由がある。

詳細は後述するけれども、ここから下流側には受益者が一人しかいなかったので、実は国費は投じられなかった。代わりに栃木県の受け持ち区間として開削され、品川開墾まで水路が延ばされたのである。新幹線に喩えればフル規格で作られたのが沼野田和までで、そこから先は在来線併用のなんちゃって新幹線になっているわけだ。

おかげでこの延長区間は、古い用水掘を転用して費用を削減するなど、かなりケチケチ(?)と安上がりに徹している。これから追いかけていくのはそんな水路になる。




とはいえ安普請であっても水質を保つための管理はきちんと行われている。

特に不法投棄の取り締まりは厳しく、ゴミを捨てると1年以下の懲役または300万円以下の罰金を科せられる。良い子のみんなはくれぐれもゴミのポイ捨てなどしないようにしよう。




■ 大田原市域に入る




そのまま、那須疎水を追いかけてゆるゆると進んでいくと大田原市の領域に入る。このあたりになってくると幹線道路と水路はまったく一致していない。脇道をちょいと入っては水路を発見する・・・という感じで追っていくことになる。




あたりはすっかり春の風景。のどかな田舎風景として眺めるには、那須疎水の沿線はとてもいい場所だ。




やがて小滝付近のライスラインに出た。




水路は相変わらず流れていくが・・・ん?




おお、久しぶりに水門を見つけた気がする。分岐というよりは流量調整用のように見えるが、大田原市に入った途端に 「ちゃんと管理してるぞ感」 が復活したな。




その先に回り込んでみると、背割り分水がある。・・・ということは那須疎水の水を利用しているわけだが、水利権的にはどなっているのだろう。明治時代の分水表にはここで水を使う権利者は載っていなかったが(^^;)




・・・と思って調べてみると、那須東原開墾社を過ぎた先にある唯一の権利者であった品川開墾(笠松農場)は、時期は不明ながら那須疎水の水利権の一部を手放しているようだ。西岩崎から遥々(はるばる)と水路を引っ張ってこなくても、もっと手近な蛇川水系などから水を得られる見通しが立ったためらしい。

そのとき解放された水利権で、現在は沿線の農家がいくらか水を引いている。いちいち個別の口数まで調べると個人の財産権の "のぞき見" になってしまうので控えるけれども(^^;)、疎水開通から100年以上も経てば、まあこういうこともあるのだろうな。




やがて市野沢小学校がみえてきた。学校に沿った部分は暗渠になってしまっているが、那須疎水はまだまだ滔々(とうとう)と流れていく。



 

■ 上深田




さらに下って上深田付近に入った。




みればここにも水門のようなものがある。




はて・・・これも分水関の一種とみて良いのかな。埼玉開拓のような密度ではないけれども、需要のあるところにはちゃんと管理設備は設けられているらしい。




面白いのは、ここにも不法投棄禁止の表示があるのだが、那須塩原市(旧黒磯市)よりも罰則が厳しい。 市域毎に量刑が異なるということは国の定める法律ではなく条令で決めているのだと思うけれども、それにしても凄まじいな。

ちなみに罰金1000万円というのは覚醒剤の製造販売で摘発されたのに匹敵する量刑で、ちょっと洒落(しゃれ)にならない重さがある。くどいようだけれども、良い子のみんなは決して那須疎水にゴミをポイ捨てなんてしてはいけないよ!ヽ(´ー`)ノ


<つづく>