2017.07.03 西表島で休日を(その2)




■ 古見の海岸線




さて港に戻るとバスがスタンバイしており、次の目的地である由布島にむかって走り出した。




この間、ちょこちょこと説明のアナウンスは入るのだが土地勘がないので 「なにそれおいしいの」 という感じで揺られていく(^^;) こういうときはとりあえず車窓から写真を撮りながら、眺められるものを眺めていくことにしよう。




さて仲間港から2kmほどで野岳という標高160mほどの小山を通り過ぎ、そこから由布島までは10km以上ずっと古見という字(あざ)が続く。道は県道215号線が一本だけ。非常にシンプルな構造の地理である。

このうち前良川、後良川に挟まれた河口の高台部分に狭義の古見がある。14世紀まで遡るのではないかもと言われる古い集落跡で、発掘される土器の様相から南方系の海洋民族が最初に住み着いたのではないかと言われている。のちに触れる島西部の祖納とともに西表島のもっとも古い人跡である。




ただしそんな古い歴史を有した集落も、観光要素には欠けると見做されているのか特にアナウンスもなくバスは通り過ぎていく。筆者も適当に撮った古見小学校の校舎くらいしか写真を残していない。

素通りされてしまいがちなのは、おそらくは歴史資料の乏しさと、集落としての断絶に一因があるのだろう。ここは明和八年(1771)の八重山地震で発生した津波で流されて一度全滅しており、さらにはマラリアで何度か廃村 → 外部から別の移民が入って復活するという経緯を繰り返してきた。だから人跡の古さの割に記録や伝承が残っていないのである。

さてここでさらりと 「外部から別の移民が入って」 と書いたが、実はこれが西表島の歴史の基本軸を成している。重要なことなので簡潔に触れておきたい。




■ 移民の島としての西表




さて時代を400年ほど遡ってみると、八重山諸島の初期の支配者として1600年頃に西塘という人物がいた。彼は琉球王府の役人で武富大首里大屋子なる官位を授かって島々を統治したのだが、その拠点となった役所を置いたのが竹富島で、ここに首都・・・と呼ぶにはまことにささやかな規模ながら、行政府(蔵元)と町が成立した。

竹富島に蔵元が置かれたのは琉球軍が八重山を征服したときに砦が置かれたことを発端にしており、まあ戦争の置き土産みたいなものである。西表島は、この竹富島に支配される関係にあった。(現在も西表島は "竹富町" の一部である)



そんな支配者階級の住む竹富島は、地勢としては砂州の島で農業生産性は少なく、特にコメは採れなかった。にもかかわらず琉球王府は税をコメの物納で要求したので、やむなく周辺の "土と川のある島" の開拓が試みられたのである。

※写真はWikipediaのフリー素材より引用




しかし "土と川のある" 西表島や石垣島(北部)は島の面積は広いもののマラリア蚊のいる危険地帯で、それまでも入植に入っては感染 → 全滅・・・という悲劇が繰り返されていた。竹富島や黒島のような面積の小さな島に集落が発達したのはこの風土病(大きな河川があるとマラリア蚊が発生する)から逃れるためで、おかげで自発的に他島の危険地帯に開拓に行きたがる人はなく、仕方がないのでしばしば強制的な移住が行われた。

こうして沿岸部にちょぼちょぼと成立したのが西表島の古集落の基本構造で、古見もその枠内に入っているのである。




この間、バスの窓から展開する海側の景色はこんな感じで、見渡す限り砂泥基調の海岸にマングローブが広がっている。一見、陸地のようにみえるところは潮の満ち引きによって容易に水没する蜃気楼みたいな領域で、国土地理院の地図では便宜上 "海岸線" が引かれているけれども、その実態は曖昧模糊として捉えどころがない。

がっつりと護岸工事で固めた海岸線ばかり見ていると忘れてしまいそうだけれど、本来、自然の海岸線というのはこういうものなのだろう。こんなところで開拓を試みたのだから、昔の人の苦労は相当なものであったに違いない。




さて高台にあがるとこんな風景になり、現在の古見集落の近傍にはわずかばかりのサトウキビ畑と牧草地がゆるゆると広がっていた。




そんなゆるゆるとした雰囲気のなかを、これまたゆるゆるとした品質の道路が抜けていく。筆者の気分もすでにゆるゆるで(笑)、流れに身を任せて漂泊の気分で流されていく。




集落のある高台から低地に降り、まもなく後良川の河口付近を通り過ぎた。琉球王朝の頃にはこのあたりに造船所があって鱶舟(サバニ)という伝統的な小型漁船が造られていたとも聞くが、現在ではその痕跡は見当たらない。

…それにしてもマングローブの海岸は透明度がないな。クルーズ船で遡った仲間川もそうだったけれど、西表島がいまひとつイメージ的にパッとしないのは、この 「青くない海」 というのが相当に効いているような気がする。




■ 由布島




やがて由布島が見えてきた。ここは砂州だけでできた周囲2km、標高1.5mほどの平らな島である。ツアーパンフレットの予定表ではあそこで植物園を見ることになっている。

※由布島は写真では手前側の島になる。奥の方に見えるのは小浜島。




由布島は西表島のちょうど東岸の真ん中あたりに位置する。

かつてはここに近隣の竹富島や黒島から人々が移り住んで、対岸の西表島の海岸近くに僅かばかりの田畑を拓いて通いながら耕作していた。・・・と書くと、あれ?さっき通った古見集落と同じでは・・・と思い当たる人もいるだろう。その成立の基本構造はほぼ同じである。




ただ由布島に人が入ったのは新しく、昭和20年、戦後の食糧難のときであった。当時は米軍の攻撃で沖縄本島が陥落した直後で、行政機構は崩壊しており、本土との船の往来も停止したので住民は自給自足で飢えをしのぐ必要に迫られた。

ただこのときマラリア対策が問題となった。戦時中にジャングルに疎開した住民が感染して多数の死者を出しばかりだったので、入植にあたっては特に注意が払われ、西表島からは少し距離を置いたこの分離丘陵みたいな地形が選ばれたらしい。

水に関しては、砂地の由布島には湖沼も河川もないけれど、島の中央部には隆起した地層の芯があって1メートルほど地面を掘ると真水が染み出してくる場所があった。多少塩分は混じったそうだが飲用水はこれを活用して井戸で賄えたという。




水田については、由布島の対岸側の写真を取り損ねてしまったので参考までに2kmほど南の後見川近傍の水田写真を載せてみよう。とりあえず雰囲気は伝わるのではないかと思うが、ここは二期作が可能なので稲刈りと田植えをほぼ同時にやっていた。つまりいったん水田が拓かれてしまえば生産性はおそろしく高い土地柄なのである。




…と、なにやら説明がえらく長くなってしまったが、前振りはそのくらいにしてバスを降りてみよう。駐車場は奥行きの非常〜に長い砂浜になっている。ツアー客の皆様はバスを降りた途端、沖合を見て 「ウヒョー」 という状態になった。




どのへんが 「ウヒョー」 なのかといえば、ここから島へはレトロな水牛車で渡るのである。幅400メートルほどの海峡は遠浅の砂地で水深は膝くらいまでしかない。しかも地形的に干満の水位変動が少ないところなので船がなくても歩いて渡れてしまう。

ちなみに筆者は現場に到着するまでこういう展開になるとは知らなかった。ツアーパンフレットにはちゃんと書いてあるのだが、それを読むより周辺の景色を写真に納めることに重きを置いていたので、見事なサプライズとともにこれまた 「ウヒョー」 の一員となったのである♪




ここに水牛がいるのは、人々が開拓に入った当時にトラクター代わりに牛が現役だったことの名残(なごり)だという。

ツアーで一緒になった訳知り顔のおっさんによれば、昭和40年代頃までは入植者はみな水牛を飼っていて、この浅瀬を渡って対岸の西表島の水田に通っていたらしい。最盛期には石垣島を中心に八重山全体で1000頭以上の水牛が飼われていたいたというから凄い話だ。




沖縄が日本に復帰(昭和47年)したのち、本土からの手厚い支援があって農業の機械化が急速に進み、わずか10年あまりで水牛は農業労働力の主役から退いた。しかし観光資源としては残り、今でもこうして現役でいる。

※裏を返せば米国が軍政を敷いていた間は "住民の福利厚生やら地域振興は二の次" で、その間水牛はずっと労働力の主役でありつづけた。

ちなみに水牛は一般的な和牛と比べて力が強く、成長が速く、性格がおとなしくて飼い主に従順という非常に飼いやすい動物である。観光客が近づいても恐れたり暴れたりする様子は無く、たしかに性格はおとなしそうであった。唯一の弱点は 「水に浸かっていないと力が出ない」 というアンパンマンの対極(?)にあるような性質だが、これは由布島の環境では問題がない。




そんな島の浅瀬を、先着バスの乗客から順番に水牛車に乗ってゆるゆると渡っていく。
うーん、なるほど・・・これは絵になるなぁ ヽ(´ー`)ノ




いくらかの順番待ちを経て、筆者もそのうちの一台に乗ってみた。

水牛車の定員は10〜20名ほどで、牛の体格によって車体の大きさは異なる。これを一頭で引っ張るのは結構大変そうな気がするのだが、牛は特に苦しそうな様子もなく淡々と歩きはじめた。手綱でなにかを指示しているわけではない。まるで空気を読んでいるかの如く、自主的に歩いている。ほとんど完全なオートドライブだ。

「牛歩」 といえば遅いものの代名詞みたいなものだけれども、人が歩くよりいくらか遅いくらいのゆったりとした進み具合で、ギシ、ギシ、・・・と車体は進んでいく。




ちょうど筆者の乗った水牛車の後ろにべつの一台がついてきていた。なかなかいいアングルで歩いてくれているので広角目一杯で一枚。ゆるゆる、しずしず、ぎしぎし・・・という何とも言えないレトロ感が素晴らしい。




島に渡るまでの時間はおよそ8分、速度に換算すると分速50mほどの歩みであった。人が歩く速度が分速80mといわれるから、水牛の歩みは人よりも幾分遅い。・・・が、ここでは齷齪(あくせく)と効率を追及するよりも風情を楽しみながらゆるりとした時を過ごすのが正しい。急いでいる人など、誰もいないのだから。




■ 由布島の熱帯植物園を散策する




さて渡り切ったところで、しばしの自由時間である。さっそく島内を散策してみよう。




おお、ヤッシー♪ ヽ(´ー`)ノ

整然と植えられた植物群が、マングローブのジャングルと違って人の手で管理された空間であることを感じさせてくれる。野性味がありすぎるのも悪くはないが、適度に管理された空間の秩序感もまたよろし。




園内は、ブーゲンビリアとハイビスカスを中心に鮮やかな花が多い。特にブーゲンビリアは30種類ほどが植えられてバリエーションが豊富だ。花期はほぼ通年で、筆者が訪れた7月初旬でも十分に見ごたえがあったが最盛期はなんと冬季だそうである。・・・へぇ (´・ω・`)




ところで現在植物園になっているこの島には、かつては25世帯ほどが住む集落が成立していたという。それが昭和44年の台風11号で高潮に襲われ、もともと標高1.5メートルほどの平坦な島だったために波に洗われて壊滅し、廃村となってしまった。植物園はその跡地を再整備して造られている。

ここを植物園として再生したのは島の住民であった西表正治(故人)さんという方であった。村が消滅するのを憂いて島に残り、なんとか人を呼び戻したい…と、10年余りをかけてヤシやハイビスカス、ブーゲンビリアなどを植えていったという。



その手作りの "再開発" には10年もの時間を要したが、昭和56年に植物園として開園すると徐々に来訪者が増え、やがて西表島観光の看板のひとつになった。今ではどのツアーコースを選んでもここだけは必ず含まれるくらいにメジャーな存在になっている。西表正治氏はそれを見届けたのち、2002年頃に96歳で永眠されたという。




そういう経緯を聞くと、辺境の島にも歴史あり・・・という感慨を得る。園内に点在するいかにも素人仕事っぽいオブジェも、決して小器用でなかったであろう老人の残したもので、なかなかにいい味を出している。下手にスマートなことをやろうとせず、等身大であるのがいい。

ただ何度もいうけれども、筆者はそうした予備知識を全然持たないままにここに来てしまったので、現場を歩いているときには 「おー、花だ〜」 くらいの認識しか持ちあわせなかった。それを鑑みるに、やはり旅には最低限の事前リサーチは必要なのだなと思う。




ところで後出しジャンケンみたいな話で申し訳ないけれども、島内を一周して思うのは、西表島はそれほど花いっぱいという景観の島ではないということだ。花風景の写真を撮るのであれば、ここでしっかり枚数を稼いでおくのが良いと思う。




さて花以外で面白いものとしては、"水牛之碑" なるものが建っていた。

これは島で車を引いている水牛に関する記念碑だ。西表島にはもともと野生の水牛は生息していないのだそうで、台湾原産の水牛を繁殖させて使役している。この植物園の牛は初代の大五郎、花子の2頭から始まって、現在は孫、ひ孫の世代になっており40頭以上に増えている。

西表島は地理的には日本本土はおろか沖縄本島と比べても台湾のほうが近く、大日本帝国時代はともに "日本" であったのでこういう結びつきもあった。なかなに興味深い歴史の一端である。



 

■ 島の裏側へ




さて暑いので建物内に退避すると、お土産屋さんがモミ手をしながらどーぞどーぞと愛想がいい(笑) お土産は水牛グッズと泡盛が多かった。筆者はあまり重いものは持ちたくないのでキーホルダー系の軽めのやつをチョイスしてもう少し園内を歩いてみることにした。




そんな訳でふたたび屋外である。散策時間はまだもう少しあるので、ここで島の反対側に抜けてみよう。




島の東端に出ると、ほとんど手付かずの砂浜が広がっていた。地理的にはまだマングローブ林の外延部みたいなものなので水は少々濁り気味である。しかし遥か向こうに石垣島、手前に小浜島が見える海峡は、なかなかに美しかった。




ちなみにこの付近では世界最大のエイとされるオニイトマキエイ(通称:マンタ)が見られる。彼らの主食は海中のプランクトンで、その供給元をたどればこの西表島のマングローブ林に至るらしい。小浜島と西表島の間にあるサンゴ礁の深い切れ目のような部分が、その遊泳地になっているとのことだ。




さて時計を見るともう時間がなくなってきた。そそくさと奥まで行って写真をパパっと撮ってリターン。団体行動でなければもう少しゆっくりしたい気もするけれど、そこはそれ。

ちなみに 「植物園」 とは思わずに 「かつての集落跡」 という感覚でみると、ああこのへんに民家があったのだな、学校はこのあたりだったのかな・・・という余韻のようなものがあって興味深い。




ということで、帰路の水牛車に乗り込んだ。 二度目の渡海は、ガイドさんの三線を聞きながらであった。




♪サー君は野中のいばらの花かサァーユイユイ
暮れて帰ればやれほんに引き止める
マタハリヌチンダラカヌシャマヨー

♪サー嬉し恥ずかし浮き名を立ててサァーユイユイ
主は白百合やれほんにままならぬ
マタハリヌチンダラカヌシャマヨー



♪サー田草取るなら十六夜月夜サァーユイユイ
二人できがねもやれほんに水入らず
マタハリヌチンダラカヌシャマヨー

♪サー染めてあげましょ紺地の小袖サァーユイユイ
掛けておくれよ情けのたすき
マタハリヌチンダラカヌシャマヨー

♪サー由布島よいとこ一度はおいでサァーユイユイ
春夏秋冬やれほんに花が咲く
マタハリヌチンダラカヌシャマヨー



・・・本来ならもう少し余韻に浸っていたい気分もあったけれども、ツアー旅行のスケジュールには従わねばならない。こういうところが、集団行動のちょいとアレなところだな(^^;)


<つづく>