2010.04.30 東野鉄道の廃線跡を訪ねる:後編(その2)




■ 歴史民族資料館に寄ってみる




笠石神社を過ぎると東野鉄道跡地はまだ拡張されていない4m道路の状態になった。早晩ここも拡張されてしまうのかも知れないが、まだ1930年代の雰囲気の片鱗くらいは残っている。この先にあった駅はあと佐良土と那須小川の2駅を残すのみだ。

…が、湯坂川の橋台以降のあまりの痕跡の少なさに多少の不安も覚えたので、少し寄り道をしてみることにした。




寄った先は歴史民族資料館である。以前上侍塚古墳を資材したときに立ち寄っており(記事では割愛しているのだけれど ^^;)、東野鉄道の資料がいくらか展示してあったのを思い出したのである。

鉄道博物館ではないのでそれほどマニアックな資料が山盛りというわけではないが、現役当時の路線図や切符、時刻表など往時を偲ぶ展示がいくつか見られる。実際のところ黒羽以南ではそれなりの規模の集落があったのは佐良土と小川くらいで、手がかりをつかむとすればこの駅周辺くらいしかなさそうに思えた。




中には湯津上駅の設計図の展示もしてあったりして面白い。断面図をみると、現在のJR線では駅舎の床面=ホームの床面になっているところが多いと思うが、湯津上駅は駅舎の床面=地表面で、ホーム部分だけが部分的に盛り土されていたことが分かる。レール面からホーム面までの高さは2尺(約60cm)で現在の感覚からみるとかなり低い。やはり客車昇降口のステップを踏んで 「よっこいしょ」 と乗ったのだろう。




係員氏に今でも残っている駅の痕跡などはありますかと聞いてみたところ、大部分は撤去されてもう残っていないのではないかとのことだった。ただし佐良土駅跡は現在のJA佐良土支所の向かい側で場所は特定できるらしい。

面白いものがありますよ、と資料室に案内して頂き地図を見せていただいた。佐良土は古い集落なので付近の民家は屋号をもっている。屋号とは一族や一門を表わす家の名称に相当するもの…と思えば良いだろうか。新興住宅地などではもう見ることはできないが古集落では今でも通用する。そこに駅の名残が見られるというのだ。




見れば、確かに 「ていしゃば」 という屋号がみえる。屋号というと 「○○屋」 とか 「○○亭」 というパターンが多い印象を持っていたのだけれど、これは確かに特徴的なのであった(´・ω・`) …こういう切り口でわかる歴史というのも、あるのだなぁ。




■ 佐良土




さて場所が特定できたところで佐良土に向かって再出発する。

午前中は晴れていたのに、すっかり雲が広がっていよいよ小雨が降り出してきた。天気予報では一日晴れると言っていたのになぁ…。ともかく、本降りにならないように祈りつつ、進んでいこう。




いよいよ佐良土の集落に入ったあたりで線路特有のゆるやかなカーブが見えてきた。ここが廃線になったのは昭和14年、もう70年ほども昔のことだ。かつては蒸気機関車が走ったであろう鉄路の跡を、エクストレイルで辿っていく。




やがてR400と交差したところにJA(↑写真左の建物)があった。佐良土駅はこの付近である。
見れば…おお、なんとホームの跡が残っているではないか…!ヽ(・∀・)ノ




注意をしていないと見逃してしまいそうだけれど、この / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ 型のコンクリート部分がホーム部分の痕跡である。本来はこれが土留めとして2本並び、間に土が盛られてホームを形成していた。廃線後に側溝の壁として利用されたことで、この部分だけが残されたようだ。




湯津上駅の構造から類推してここもホーム高さ2尺と仮定すると、当時の線路面は現在の道路面より30〜40cmほど掘り下げた位置にあったらしい。砂利と枕木の分を考慮するともう少し深かったかもしれないな。

向こう側には 「ていしゃば」 さん宅らしい民家も見える。…が、野次馬根性で個人宅に押しかけるのも憚(はばか)られるので今回は取材を見送った(^^;)




■ 箒川鉄橋跡




佐良土を過ぎるとまもなく箒川(ほうきがわ)の河岸段丘に降りていくことになる。段丘の下段面にも水田が拓かれているが、鉄道はここまで降りることはなく、長さ400mに渡る鉄橋で段丘ごと越えていく構造になっていた。写真↑の左側に見えるコンクリート製の小屋がその起点部分にあたり、ここからでは視界に入らないが250mほど先のもう一段下がったところに川が流れている。




同じ場所を振り返ってみるとこのような構造になっており、ここが橋台跡であることが伺える。現
在ではどうやら電波中継施設?の土台として使われているらしい。




さらに箒川の水流まで進んでみると、かつての鉄橋の橋台跡が残っているのが見えた。




対岸側にもコンクリート製のかなり重厚な土台が残っている。




あと一駅…というところで登場したこの長大な鉄橋は、東野鉄道の沿線設備としては最大の投資を必要としたシンボリックな鉄橋である。…が、これを掛けたことで東野鉄道は苦境に陥り、やがて崩壊していくことになった。ここでその辺りの多少の事情を書いてみたい。




東野鉄道は当初から茨城県の大子までの開通を目指しており、馬頭を経由して八溝山地を越える計画だったことは既に述べた。計画では佐良土から那珂川を渡って対岸に移る↑Aの路線 (注:正確な路線計画が不明なので図では模式的に示した) が構想されていたらしい。

しかし株主の一部から小川を経由するよう強力な工作があり、結局はBのルートでの建設に舵が切られた。東野鉄道には喜連川を経由して宇都宮方面と接続して欲しいとの要望も寄せられており、「おらが町にも鉄道を」 との政治的な綱引きが活発で、これはその妥協の産物であったらしい。

しかし小川を経由するということは、馬頭に至るまでに大型鉄橋を2本作らなければならない。箒川の鉄橋の建設費用は25万円を要したそうで、東野鉄道の設立時の資本金=50万円と比較するといかにも巨額であった。これを賄うために資本金の増額などが図られたのだが、おかげで採算ラインのハードルは上がってしまった。




さらには、ライバルが現れた。馬頭を経由して大子に抜ける構想は矢板と藤原(高徳)を結んでいた野州電気鉄道も持っており、また国鉄も東野鉄道に5年ほど遅れて同じ路路線を目指して烏山線の建設を始めた。詳細を書き始めると長くなるので省略するが、当時は国会議員の人気取りであちこちに鉄道路線を引っ張る行為が蔓延しており、栃木(…というよりは茨城県の事情が強いようだが)でもその片鱗が見えたということだろう。

この烏山線の伸張が、東野鉄道の命運を決めることになった。宇都宮から宝積寺を経て馬頭、大子までをつなぐ国鉄路線が開通してしまうと、首都圏の貨物はそちらを経由することなり、東野鉄道の黒羽以南の路線の意味がなくなってしまうのである。

…そしてさらに不運なことに、このとき世界恐慌(日本では昭和恐慌)が重なった。これで東野鉄道の財務は悪化し、ついに昭和14年、黒羽〜那須小川の路線は廃止になってしまうのであった。




しかし私鉄キラーとなった烏山線も、結局は日中戦争拡大、大東亜戦争の開始…と不穏な世相の中で延長工事は進展せず、馬頭などは鉄道の開通を約束されながら一度もその直接的な恩恵を受けることはなかった。

…これは本当に、不運としか言いようが無い(^^;)

<つづく>