2011.10.23 那須硫黄鉱山跡を訪ねる:前編(その3)




■索道終端跡付近


 
さて殺生石を過ぎてからは、ボルケーノハイウェイをゆるゆると登っていく。

ここから上は殺生石とは鉱区が異なり那須硫黄鉱山株式会社のテリトリーとなる。時代も一気に明治の終わり頃から戦後間もない頃まで到り、もはや黒羽藩時代の面影は無い。

この鉱山会社は昭和35年頃まで事業を行っており、現在の茶臼岳周辺の観光ルートはこの鉱山の跡地をほぼそっくり受け継いでいる。ただし現在の車道はエンジンの非力なクルマでも登って来れるようクネクネと勾配のゆるいルートを辿るように設計されているので、鉱山時代の道=旧道とはきれいには重なっていない。

硫黄鉱山が現役の頃の道路は、もっと直線的で勾配もきつい未舗装路であった。もちろん当初は自動車の通行などは考えられておらず、沿道にあった大丸温泉や弁天温泉の来客は徒歩で登ってくるか、さもなくば江戸時代の殿様よろしく籠(!!)に乗って揺られてきたのである。大丸温泉から上側は、勾配はより厳しくなり、道というよりは階段を登るようなルートであった。もちろん完全に徒歩の世界である。

※籠は昭和20年代まで実際に使われていた。


 
そんな状況でどうやって硫黄を山から降ろしたのかというと、リヤカーほどもある橇(そり)で引いて湯本(殺生石)のあたりまで引いてきたのであった。冬は雪の上を、夏は枕木の上を油を注(さ)しながら、人力で引いた。湯本から先は、馬車でトラックの入れる場所まで運んだのである。


 
では山頂から延々とマッチョな山男達がズリズリ荷物を引いてきたのかというと、さすがにそんなことはなく、もちろん文明の利器は使用されていた。那須町立図書館に戦前(昭和11年)の地図↑があったのでコピーさせて頂いたのだが、これをみると茶臼岳の火口付近に鉱山のマークがあり、そこから道路とは別に直線が引かれているのがみえる。これは硫黄運搬用のロープウェイで、当時は横文字は使わずに "索道" (さくどう)と呼んだ。

現在東野交通(昔の東野鉄道)が運行している観光用のロープウェイ (1962年開業。上の地図ではまだ存在していない) は700mほどの長さだが、この鉱山の索道は総延長が3km以上もあり非常に規模の大きなものだった。道路事情が悪い分、空中を通して運んでしまえというもので、発想としては合理的…かつ "豪快" といえる(笑)

※上図の出典:国土地理院 1/50000 地形図 日光二号(昭和11年)より抜粋


 
その索道の終端部は地図を見る限り弁天温泉の南方300〜400mほどにあったようだが、現在ではボルケーノハイウェイの工事に伴い建物が撤去されてしまっており、その痕跡は容易にはわからない。

ついでに言えば戦前の地図は特に山間部の地形誤差が大きくて、現在の地図とはなかなかうまく重ならない。こういう状況で遺構の位置を検証しようとするとナカナカ大変なのだが、今回はなんとか頑張って終端部を探してみよう。


 
索道終端の建物は、中曽根の茶屋の先にあったという。中曽根というとまるでどこかの島国の元総理大臣みたいだが(笑)、細長く続く稜線のことを一般的に曽根といい、その中ほどの場所という意味らしい。

見ればその名も中曽根というバス停がある。…ホントにここで降りる人がいるのか?…とツッコミのひとつも入れたくなる寂しい場所なのだけれど、これでも一応現役の停留所である。


 
ここはかつて旧国民宿舎(現在の国民休暇村の前身)の建物があったところで、かつては登山客で賑わう人気スポットであった。付近には茶屋もあって、有料道路開通後もしばらくは人の往来があったのだ。


 
ちなみにその旧国民宿舎の建物は、現在も廃墟となって背丈ほどもある笹藪の中に埋もれている。バス停からの距離は100mもないが、なにしろ斜面の下側でさらに藪が深いため視界は通らず、道路からはほとんど見えない。

…これが、Googleの衛星写真MAPでみると 「いかにも」 という廃墟具合に見えたので、筆者はてっきりこれが索道終端なのでは…と思って登ってきたのである。


 
おかげですっかり気合が入ってしまい、霧雨のなかをずぶ濡れになりながらヤブ漕ぎして到達してみた。玄関先から中を見ると扉も窓もすっかり壊れて入り放題なのだが…はて、ここに入ると不法侵入になったりするのだろうか(^^;)

それにしても山男の仕事場にしては瀟洒すぎ…というか、ちょっと鉱山施設というイメージではない。裏側に回ると展望大浴場らしい部分もあり、やはり観光客向けの宿泊施設なのだろうと判断した。


 
取材時には 「いったいどう読むのだろう?」 と謎だった玄関先の表記も、あとから見直せばなんとなく "那須国民宿舎" の残骸のようだ。うーむ。


 
さてそんな訳で再びヤブコギをして車道まで戻り、今度は旧道らしい踏み跡をたどってみることにした。かつては橇(そり)が通ったであろう道すじである。

旧道といっても今では草木に埋もれるただの登山道であり、しかもすぐ横を車道が走っているので、よほど酔狂な暇人でもない限りわざわざ歩く理由は見出せない。現在では温泉の導管が埋設されていて、管理会社の人がごく稀に通るくらいである。


 
温泉の導管は、ところどころにこんなカナート状の縦穴を設けて状態を確認できるようになっている。

索道跡地に至るには、とりあえずここをたどって行けば良さそうだが…


 
なんと、そのまま国民休暇村の裏手に抜けてしまった。

…なんだこりゃ?(´・ω・`)


 
 もしかして途中でなにか見落としたかな…と思いつつ、思案のひととき。

現在の休暇村はさきほどのバス停の付近にあった旧・国民宿舎が1975年頃にリニューアルして移転したものだ。ざっと築30年といったところだが、旅館/ホテルとしてはまあ新参の部類といっていい。


 
…が、その割には石垣が随分と古そうに見えるなぁ(´・ω・`)


 
建物との重なり具合も不自然で、どうやら元々あった石垣の上に後から建物を乗せたような印象なのである。


 
不思議に思ってフロントで係員氏に聞いてみたのだけれど 「なにぶん昔のことですからねぇ、建築当時のことはごにょごにょ…」 と明確な回答はもらえなかった。

少なくとも以前になにかが建っていて、そこを再利用しているのは確かなのだけれど…ここを索道終点と認定していいのだろうか? 難点としては、昭和11年の地図と比べて現在の休暇村は弁天温泉入り口に近すぎることだが…


 
…と思って周辺を散策してみると、休暇村より北側(山寄り)に弁天温泉に至る古い参道があった。

なるほど…現在の弁天温泉入り口は車で降りるためにゆるいスロープで南側に長い道を付け替えたもので、本来はここが降り口だったということか。それなら休暇村南端というのは正解に近そうな気がするなぁ…(´・ω・`)


 
ただし、今回候補地として判定している古い石垣部は、昭和11年の地図(上図左)にある索道終端部位置からすると150mほど北西側にずれている。航空写真で見れば何かわかるかと思い米軍撮影の1947年の写真も見てみたのだが、撮影高度が高すぎて拡大してもよくわからない。

…そんなわけで、今回は有力候補としての石垣は見つけたけれど、とりあえず索道終端部の "認定" は保留ということにしておこう(^^;) …ちょっとすっきりしないけれど、無理に判定して間違えるよりはマシと考えよう。

<つづく>