2011.10.23 那須硫黄鉱山跡を尋ねる:前編(その4)




■大丸温泉から見る風景


 
索道終端(…らしいところ^^;)からは500mほど上がると大丸温泉に到る。ほどなく現れるのが、山間の温泉宿には不釣合いなほどに大きな駐車場だ。

ここは昭和20年代まで電気が通らずランプの生活が続いていたという。湯本からは5kmあまり。クルマは入れず、徒歩で登ってくるとおよそ2時間ほどかかるちょっとした秘境?であった。



 
そんな大丸温泉に広い駐車場スペースがあるのは、昭和27年頃に高原バスが運行を初め、その折り返し地点になっていた名残であるらしい。かつてはそのすぐ脇を鉱山の索道が通っていて、精錬された硫黄が下っていくのがよく見えた筈の場所だが…残念ながら、車道が通じた頃にはもう硫黄鉱山は斜陽化が著しかった。


 
ちなみにバス路線が開通したといっても改修前の道路は普通の車両では登坂できず、こんな(↑)戦車のようなキャタピラバスが走っていた。復活してくれたら猛烈に乗ってみたいイカしたデザインだw

※写真は那須温泉誌(那須町教育委員会)より引用。


 
さてその駐車場から振り返ると…おお、なんと眼下には一面の雲海が広がっているではないか ヽ(・∀・)ノ

下界は雨だったけれど、それでも諦めずに登ってくると、こんな御褒美に与(あずか)ることもあるのだなぁ。


 
しばしこの風景を眺めてマターリ。…こうしてみると、本当にここは高山なのだと実感する。

観光登山では天気の良い日を選ぶ人が多く、雲海を目にする機会というのは実はほとんど無い。こんな風景を見ることの出来るのは、天候が悪くても登ってくる暇人か好事家か…或いは仕事で山に入る人くらいだろう。


 
鉱山時代の飯場は、ここからさらに上…現在の峠の茶屋にあった。

観光客向けの案内書には鉱山事務所と精錬所のこしか書いていないけれども、そこは作業員宿舎も兼ねており、彼らはいったん山に入ったら現場近くに張り付いてしばらく降りてこなかったのである。


 
鉱山が閉山して以降は、ここ大丸温泉が那須で人が常駐している最も標高の高い集落になっている。

ここから上は、峠の茶屋にしても三斗小屋温泉にしても、冬季には人が降りてしまい無人になってしまう。ボルケーノハイウェイも冬季はここから先は通行止めである。いろいろな意味で、ここはどん詰まりなのだ(^^;)

しかしそんな中でも登山道は通行止めになることなく1年中山頂に向かって通じている。それは冬季であっても人が登ってきた歴史があるからで、端的に言って鉱山へのアクセスが日常的にあったからだ。


 
そんな登山道は、気合を入れれば現在でも湯元からこの大丸温泉駐車場を経由して峠の茶屋、峰の茶屋、そして火口まで登ることができる。

…が、以前筆者はそれに挑戦して猛烈な筋肉痛を経験しているので (おいっw)、今回は華麗かつ軟弱に見送ることにしよう。…というか、やっぱりクルマがあれば使いたくなるのが人情というもので、まーアレだ (以下軟弱な言い訳が続くのでカットw)




■索道の櫓の跡を追ってみる


 
さて気分を変えて、ここからは索道の櫓(やぐら)の痕跡を追ってみたい。地元でもすっかり記憶から抜け落ちてしまった感のある鉱山索道だけれども、実は櫓の痕跡はまだ残っている。

まず下端側の基点(というか終端な訳だが)は、今回は認定が保留扱いだが "当たらずとも遠からじ" ということで休暇村の石垣部分と仮定しよう。


 
少し登って、大丸温泉駐車場の南端側に櫓の跡地がある。一見すると駐車場のようなスペースで、事実混雑期にはここにクルマが停められたりするのだが、ここからは弁天温泉のある苦戸川の谷筋を超えて休暇村に視界が通る。崖っぷちの実にイイカンジの場所である。


 
大丸温泉から観光ロープウェイに到る途中のカーブにも、櫓跡の更地がある。

ここも混雑期には臨時の駐車場代わりに使われる (というか勝手にクルマを停める人がいる) 場所だが、大丸温泉をちょうど見下ろせる位置に、実にセクシー(?)なスペースとして残っている。道路がここを巻いていくように作られたのは、工事が始まった時点ではまだ櫓が残っていたということなのだろう。


 
さらに登って、東野交通の運営する観光ロープウェイの山麓駅脇にも櫓の跡地がある。ここは旧道が通っていて峠の茶屋まで最後の一踏ん張りの石畳が通じているのだが、櫓の位置は現在は展望台っぽい休憩所になっている。


 
ロングだと分かりにくいのでアップの写真も載せてみよう。

石畳をみると、画面中央あたりに境界があって石の並び方が異なっている。ボルケーノハイウェイの工事が行われたときに櫓が撤去され、階段降り口が付け替えられた痕跡…と思えばいいのかな。

※石畳の整備時期は鉱山時代かそれ以降かはよくわからない。


 
そこを過ぎてもう少し登ると、峠の茶屋の駐車場に行き着く。かつて鉱山事務所のあったところだ。




以上の各点は、ほぼ等間隔で綺麗に直線上に並んでおり、戦前の地図に書かれた索道ともほぼ重なっている。索道はその構造上直線でルートを決める必要があるのだが、ちょうど等間隔で櫓が設置できるようにうまく地形を選んでいることが伺える。…結構ちゃんと考えられているんだな。


 
ところで、索道のルートを検証していて筆者的にちょっとした発見があった。峠の茶屋には大小2箇所の駐車場があるのだが、第二駐車場がなんとも奇妙な位置、向き、大きさのように思えて、筆者は昔からこれが非常に不思議だった。

…それが、櫓跡を結んだ直線を伸ばしていくと、この第二駐車場にちょうど重なるのである。


 
上から俯瞰するとピンと来るのだが、おそらく此処がかつての索道(下側半分)の起点なのだろう。

現在の峠の茶屋は鉱山事務所と精錬所の跡地である。ここで精錬した硫黄は一本18貫目(=67.5kg)の筒状の塊に整形されて索道で降ろされたのだが、それを積み出す貨物駅のような役割を果したのが、出島のように突き出したこの場所だったのだろうと筆者は推測している。精錬所位置からこの出島スペースに向かう通路部分など、荷車を転がしていくのに丁度いい勾配でなめらかにつながっていて実にイイカンジなのである。

※駐車場を管理している栃木県庁は、鉱山の施設跡地をそのままそっくり受け継いで何の工夫も無くそのまま駐車場にしたらしい。しかしそのお陰で往時の遺構が分かりやすい形で残されたともいえ、筆者はお役所仕事に久々に Good Job ! の言葉を贈りたくなった。もちろん、皮肉じゃないぞ(…多分^^;)


 
そんな訳で、ちょっと遊んでみた。

ロープウェイ山頂駅から撮った写真に、在りし日の索道の推定ルートを書き込んでみると、こんな↑感じになる。山麓駅直下の駐車場付近にもう1本くらい櫓があってもよさそうな感じだけれど、高低差の観点からも問題無くワイヤーを引っ張ることができ、ルートとしては申し分なさそうに思える。現在の観光ロープウェイと違って100人乗りの巨大ゴンドラを吊った訳ではないから、強度的にもホドホドで足りたことだろうし…

それにしても…こうしてみると、鉱山時代のほうがよほど雄大な施設状況ではないか。拠点と拠点も綺麗につながるし、見慣れた風景に新たな視点が加わって、ちょっとばかり新鮮に見える。…もう少し、当時の明瞭な記録とつき合わせてその真の姿というのを確認してみたいものだな(´・ω・`)


<つづく>