2016.02.14 常陸〜房総周遊記:鹿島編(その1)




冬の海浜道路を周遊して参りました (´・ω・`)ノ 
前回の包丁式がインパクトありすぎだったので、それをカットした版になります。



新車のテスト走行を兼ねて海浜ドライブの旅に出てみた。実を言うと当初は南会津の雪国行脚を予定していたのだけれど、暖冬で雪が少ないうえに雪祭りの集中する2/13〜14の天気予報は全国的に雨模様であったので、これなら南に進路をとったほうが良いだろうと行先を変えてみたのである。

ちょうど南房総は菜の花の咲く頃なのでそれを見てみたいという気分もあった。目標地点はできるかぎり遠くへ。・・・ということで、房総半島の最南端=野島崎を目指してみよう。




【今回はちょっと長い!】


さて今回のレポートはちょっとばかり長い。日程は少し贅沢に3日間である。これを全部一度に書くとまとまりのない駄文の羅列になってしまうので(いやいつものことだろうとかそういうツッコミは無しで ^^;)、1日毎に前篇/中編/後篇と分けてレポートしていきたい。内訳はざっと以下のようなものになる。

1日目:大洗〜鹿島周辺の神社巡り (歴史探訪)
2日目:犬吠埼〜九十九里浜〜鴨川の流し旅
(お気楽な流し旅)
3日目:野島崎近傍での花を巡る旅
(さらにお気楽な流し旅:笑)


今回は前篇と称して1日目の "神社巡りの旅" について書いてみたい。もともと筆者は鹿島神宮とその周辺の古代史探訪というのを以前からテーマの一つとして温めていたので、この機会に巡ってみることにしたのである。なおここではクルマの話はあまり出てこないので(^^;)、気楽なドライブ紀行を期待している方は2日目以降を見ていただくのが良いかと思う。



 

■ 1日目のコースについて




さて1日目で回るのは主に鹿島郡の周辺になる。チェック予定なのは、平安時代初期に海からやってきて鎮座した2柱の神を祀る酒列磯前神社と大洗磯前神社、そして古代大和朝廷の出先機関として東国平定の拠点となった鹿島神宮と香取神宮である。包丁式を見学して時間を使ってしまったので実際に訪れたのは大洗磯前神社と鹿島神宮のみになってしまったのだが、「まあそこはそれ」 ということで筆を進めていきたい。

このうち古代史的に重要なのは鹿島神宮と香取神宮である。いずれも創建時期の不明な(→あまりにも古すぎて明瞭な記録がない)古社で、飛鳥時代の大化の改新の前後から朝廷のテコ入れがあってその地位を確立している。ここに設けられた鹿島郡、香取郡はそれぞれがまるごと鹿島神宮、香取神宮の神領で、当時は郡を治める郡司は原則として世襲が認められなかったものを、曲げてここだけは宮司=郡司として世襲が認められていた。

古代の大和朝廷はその支配域を東方に拡大する過程で、ここを拠点にして関東、および東北(蝦夷)の支配を強化していったといわれている。そのあたりを掘り起こしながら巡ってみるのが1日目のおおまかな意図になる。



 

■ 常陸への道




ということで、さっそく那須を出発である。

天候は思い切り雨であった。寒波の波状攻撃が去って南から暖かい空気が吹き込んだこの日、全国的に空模様は不安定でお天気キャスターもネガティブな解説ばかりしている。そんな天候なのになぜ出かけるかというと、雪祭りに行くつもりで取得していた有給休暇を返上するのがもったいないという小市民的な動機に依っている(笑) なにしろ底辺サラリーマンには選択肢が少ない。得られたチャンスは有効に活用したいところだ。




まずは水戸方面を目指して東北自動車道→北関東道を行く。大洗まではざっと150km、慣らし運転でトロトロと走っても2時間もかからない。




途中、一時的に雨足が強まったりしたけれども、茨城に入ってからは小康状態がつづく。




水戸大洗ICに至る頃にはなんとか雨は上がっていた。天気予報では暴風雨がなんたら…と言っていたが今のところは大丈夫そうだ。

ICを降りると5kmくらいで海岸に出る。おお愛車よ、あれが太平洋だ…!



 

■ 大洗磯前神社




さてそんな訳で、まずは大洗磯前神社に寄ってみよう。ここを選んだのは高速道路を降りて最初に海が見えるポイントだからというのもあるのだが、文献のすくない平安時代のごく初期にあって六国史に名の残っている古社だというのが大きい。

ここは那珂川河口を挟んで向かい側にある酒列磯前(さかつらいそさき)神社と二社一対となっている。二人セットで出現した神様を一人ずつ祀っており、両社とも縁起は共通だ。こういう二社一対の神社が祀られるのは、峠とか国境とか川とか、とにかく境界となっている地形に多い。

古代には大洗磯前神社が鹿島郡の北端、酒列磯前神社が那珂郡(那賀郡)の南端にあたっていた。この形式で神社が作られたのは、やはり境界を守る意があったのだろう。

※前回包丁式のレポートを書いたのはここの取材の一部ということになる




ここに神が降ったのは斉衡三年(856)のことと伝えられる。日本の正史である六国史のひとつ本文徳天皇実録によると 「鹿嶋郡大洗磯前有神新降(中略)時神憑人云我是大奈母知少比古奈命也、昔造此国訖去徃東海今為済民更亦来帰」 とある。こんな原文読めるかよ、とのツッコミがありそうだが、朝廷の文書は和文をそれっぽく変形して当て字した "なんちゃって漢文" なので、一字ずつ追って行けば実はだいたいの意味は分かる。

ここで大奈母知とは大己貴命(おほなむちのみこと)であり、少比古奈とは少彦名命(すくなひこなのみこと)で、天孫降臨以前に日本の国土を作ったとされる国津神(出雲系)である。本文徳天皇実録では、耳目の無い僧侶の姿をした怪石として海の中に現れ、人に憑依して "むかしこの国を作って東の海に去ったが、人々を救うために再び戻ってきたにゃん" と語ったと記録されている。降臨した二柱の神は大己貴命が大洗に、少彦名命が酒列に祀られた。

その降臨の場所は現在では海中に鳥居(一の鳥居)が建って初日の出の撮影の名所となっている。みればなかなかに写真映えのする風景で、これで晴れていたら最高の景色になったことだろう。




神社創建当時の大洗は島であった。時代は坂上田村麻呂の蝦夷遠征から半世紀ほどが経過し、名目上は津軽のあたりまでが朝廷の版図になっていたものの、実効支配はいまだ微妙・・・といった頃である。

こういう時期に東国に "国造りの神" が降臨しているのを見ると、筆者はなかなか意図的なものを感じてニヤニヤしたくなってしまう(^^;) 記録では常陸国から朝廷に神の降臨の報告があった…という体裁になってはいるのだが、おそらくは国司が蝦夷の完全平定を願って呪術的な意味合いをもたせた神社を建立したのではないだろうか。




余談になるが朝廷が東国支配を強化し始めるのは、律令国家への脱皮が始まる飛鳥時代後半である。この頃の日本は超巨大帝国=唐の勃興と拡張、そして新羅の裏切りによって大陸にあった拠点(任那/百済等)をすべて失い、安全保障上の危機を迎えていた。以前 "鉄と日本刀" をテーマにしたときにちょこっとその辺の事情について書いているので暇な方は参照されたい。




まるめた言い方をすれば、当時の朝廷は大陸から締め出されて国家としての規模が縮小したぶんを、東方への膨張で補おうとした感がある。さらには奈良時代に入ると関東、東北地方で銅や金などの資源が発見され、また気候の温暖化によって米作が北方に拡大する余地が生まれた。これが東方への膨張の動機を高めたのはまちがいない。




その征服事業は、当初は軍隊を派遣して占領するかなり強引な方法論が取られた。しかし朝廷の財政は奈良時代の巨大土木事業の乱発でやがて破綻に向かい、平安京の建設でついに財政崩壊を起こしてしまう。

ではそれ以降はどうなったかというと、戦争の代わりに急に寺社の建立が増えだすのである。政策として進められたものか、結果的にそうなっただけなのかはよく分からないけれども、まず坂上田村麻呂を開基とするおびただしい神社群が平安初期の東国に出現し、それ以降は無秩序ともおもえる雑多な神々が祀られていった。

※神仏混淆の時代なので神社ではなく仏教寺院の形をとったものも多い。その場合、宗派は奈良仏教ではなく平安時代になって勃興した密教系(天台宗、真言宗)になっているものが多い。




大洗磯前神社の建立もその文脈の中にあるように思える。そこには宗教的な空白地帯を記紀神話の神々で埋めていく活動の一端がなにやら仄(ほの)見える気がしてならない。




本来であれば、そのあたりの周辺事情を酒列磯前神社とセットで巡って掘り起こしてみたかったのだが、前回レポートしたようにアンコウの吊るし切りと包丁式のインパクトに負けてそちらを見入ってしまった(笑)

…そんなわけで、少々掘り下げ方が足りないけれども、大洗はこのあたりで切り上げて鹿島神宮を目指すことにしよう。


<つづく>