2019.01.01 初詣:大田原神社




大田原で静かな初詣をして参りました(´・ω・`)ノ



さて本年度の初詣は大田原神社に行ってきたので年始一本目のレポートはここから書いてみようと思う。 大田原神社は大田原城址のあるお城山丘陵の北方、通称山の手とよばれる高台に位置する古社である。

創建は大同二年(西暦807年)とされ、大和朝廷が脱・仏教路線に転じた奈良時代末期〜平安時代草創期の神社大量増殖期に起源をもつ量産型神社群のひとつにあたる。この頃の創建とされるのは神社だけではなく仏寺にも多く、鉱山や温泉発見の伝承もこの年代が多い(たとえば塩原温泉は大同元年である)。

宗教史的には弘法大師空海が真言宗を開いたのが大同二年で、ひろい視点で日本の特に山岳信仰史をみれば 「真言密教と親和性の高い修験道の山伏たちが伝説に筆を入れまくったんじゃないの」 的な最大公約数が指摘されていたりもするのだが(^^;)、決定打と呼べるほどの論拠には乏しい。 ……なので、今回は無理に考察を重ねて何らかの結論を出すのではなく、伝承をナナメ読みしながら神社を眺めてみようと思う。




■ 大田原神社への道




さてそんなわけで大晦日の午後10時半頃に筆者は家を出た。 那須〜塩原の山岳部と異なり那須野ヶ原の平野部には積雪がほとんどない。 明るい時間帯なら枯れ草色の続くはずの扇状地を、大田原にむかってゆるゆると走る。

途中、コンビニで温かい缶コーヒーをGETしながら 「今年は年末年始手当は出るようになりましたか」 と聞いてみると 「そんなもん無いっスよ」 といつもと変わらない答えが返ってきた。世間では働き方改革などというブルジョワジーな呪文が飛び交っているようだけれども、なかなかに末端の労働環境は世知辛い。



神社にはあっという間に到着。年明けまではまだ1時間ほどあり人影はまばらだ。気温は氷点下4度。空気はピンと張り詰めている。

駐車場の風景はすこし寂しい。かつては大田原神社の手前に護国神社が建っていたのだが、2011年の東日本大震災で倒壊してしまい、今は更地になっている。百年越しの貴重な文化財だったのに残念だな。




さてここで周囲の状況をいくらか説明しておきたい。大田原神社は大田原城(城山)の北側に隣接する小高い丘=龍体山の南端に位置している。ここは那須野ヶ原のほぼ中央にある分離丘陵のひとつで、大田原城下では通称 「山の手」 といい、大田原神社、龍泉寺(真言宗)、光真寺(曹洞宗)が隣接して城下の宗教エリアを構成している。




それでは神域に入ってみよう。クルマで訪れると大田原城址寄りの車道から駐車場に上がることになり、これがまたいかにもクルマ用のスロープにみえるのだが、実はこの登り口は江戸時代からある正規のアクセス路(寺院の奥の院に直結するルート)である。旧護国神社のあったところから現在の大田原神社にかけての区域はかつて寺屋敷があったところで、それが明治初期の廃仏毀釈のときに更地になってまず護国神社が建った。




その後、河原の向こう側にあった大田原神社がここに移転して、護国神社と被らない向きに参道がつくられた。こうして幾分変則的な構造で現在の大田原神社は佇んでいる。




余談になるがこの参道の真下に東野鉄道の隋道(トンネル)がある。神社側からは視界が届かないのでちょっと気づきにくいけれども、これはこれで日本近代史の遺産であり貴重なものだ。暇人の方はぜひとも探訪していただきたい。



 

■ 神域へ




さて二の鳥居をくぐって神域に入る。 参道はやはりまだ人影がすくないようだな。




そんな境内をゆるゆると進んで社殿まで歩いていく。




拝殿内部では氏子の皆様が新年を迎える準備で忙しそうだ。

日本では戦後に成立した新興住宅街に 「鎮守の社」 というのは存在しない。こうして氏子が集まって年末年始の準備をするというのは、それだけで歴史の古い集落であることの証明みたいなものといえる。




ぽつりぽつりとやってきた参拝者が 「寒いねぇ」 などと言っていると、社務所の方がやってきてお炊き上げの火が点火された。……おお、やはり年越しの風情はこうでなくては。




最近は消防署がうるさくなって炎の風情のない神社が増えつつあるけれども、ここでは伝統が守られていてありがたい。 古いお札や神棚、達磨などがくべられていくと、あたりは一気に温かくなっていく。




……さて、それでは、しばし暖をとりつつ、ここで神社の沿革などをいくらか書いてみよう。




■ 開基は平安草創期




さて大田原神社は創建が大同二年(807)と伝えられ、さきに述べたように平安草創期の神社建立ラッシュの中で成立した神社である。大和朝廷が東北地方を平定したのち、かつての蝦夷の神々を記紀神話の神々に置き換えていったビッグウェーブがあり、関東〜東北にかけてまず坂上田村麻呂の開基とされる一連の神社群が作られた。つづいて密教と山岳信仰の合いの子のような神社群、また密教系の仏寺が広まった。それらは大同年間を中心に±10年くらいの間に一斉に出現して大きなグループを形成しており、大同二年の創建のものが特に多い。




この時期には、偶然ではあるけれども幾人かの有名人が絡んだエピソードが集中している。ざっと挙げると、まずは東北平定を成し遂げた武人:坂上田村麻呂。さらに会津に勢力を張っていた法相宗の僧:徳一(※出自は興福寺系らしく東北地方南部の山伏の親分みたいな人)。そして空海、最澄である。みな同時代に生きた人で、相互に交流/接点がある。

ただ彼らが神社大量出現に直接的に関与したとか徒党を組んで陰謀(ぉぃ)を実行したという決定的な証拠はなく、容疑者(?)以前の参考人くらいの立場にとどまる。そうは言っても大変にロマンのある話なので、幾分か与太話的に想像を巡らせてみたい。




このうち最も古神道に縁があったのは坂上田村麻呂で、壬申の乱平定の縁起にあやかって蝦夷出陣時に許波多(こばた)神社に参拝している他、各地で戦勝祈願の伝説を残している。……が、彼は御利益さえあれば特に宗派にはこだわらなかったようで、仏教では観音菩薩を信仰し京都の清水寺(本尊:観音菩薩)をはじめ多数の仏寺も建立している。田村麻呂開基とされる仏寺はみな本尊が観音菩薩で、これを神道の立場から見ると大己貴命(おほなむちのみこと)となり、実は大田原神社の祭神と共通である。

またこの清水寺は宗派としては法相宗で、南都仏教の一派にあたり、これと同じ法相宗なのが会津で同時期に布教活動していた徳一であった。徳一は数千人ともいわれる僧兵を抱えて会津に慧日寺という巨大寺院を開き、勢力を張っていた(源平合戦後に没落してしまうが当時の東北地方では大きな宗教勢力である)。この徳一は空海、最澄とも親交があり、密教の教義をめぐって論争をした記録が残っている。まあ論争といっても敵対関係にあった訳ではなく、最澄の弟子である慈覚大師円仁(大三代天台座主)、伝灯大法師徳円に下野大慈寺で菩薩戒を授けたりしているし、空海の要請に応じて写経協力などもしている。ひろい意味で同業組合の一員みたいなものだ。



そして面白いことに、これら容疑……参考人の信仰した宗派に登場する神様(仏様)を概観すると、法相宗(坂上田村麻呂、徳一)、真言宗(空海)、天台宗(最澄)とも基本経典として般若心経を用いており、その冒頭で登場する重要人物が観音様(観自在菩薩)で、彼らがそれぞれ勝手に(?)行ったであろう布教/伝導活動は、細かい解釈では相違点があるものの観音信仰という面で共通項をもっていた。密教と古神道の合いの子みたいな修験道でも同様である。

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空度一切苦厄
舎利子色不異空空不異色
色即是空空即是色(以下略)


それがストレートに観音様になったか大己貴命になったかは、蝦夷の宗教空間を塗りつぶしていくときに 「どちらが現地で受け入れ易いか」 というフィルターを通すことになり(これがまさに本地垂迹)、自然神信仰の強かった蝦夷に対しては古神道側での解釈にいくらか分があった……とすれば、実は蝦夷平定後の神社増殖のあらましをなんとなく説明できてしまう。 ちなみに朝廷の立場としては、南都仏教の影響を払いたい思惑があって平安遷都を強行した関係上、古神道を押したい気分が強かったのではないか。(なにしろ密教の二大柱である天台宗、真言宗は当時ポッと出の新興宗教でまだ実績がない ^^;)

……で、彼らにまつわるエピソードで大同年間のものをピックアップすると、清水寺の建立=大同二年、慧日寺の建立=大同元年、空海による真言宗開宗=大同二年(注:諸説ある)、最澄による天台宗開宗=大同元年、とほとんど同時期に重なっている。「大同年間の怪」 とでもいうべき現象の根底には、これが何らかの影響を与えているような気がするのだが……はてさて?





やや風呂敷を広げすぎた気もするので話を戻そう。

大田原神社は創建年代が大同二年と伝わるのみで実は縁起物語がない。創建当時には何らかの由緒があったに違いないのだが、江戸中期:正徳年間の頃に火災に遭って古文書を焼失しており、古い時代の様子がわからなくなっている。

祭神は大己貫神、小彦名神、素戔嗚尊、大山祇命とある。神社草創期には大己貫神、小彦名神の二柱であった。これら二柱はともに記紀神話の国作りの神で、天孫降臨の前に日本の国土を開発した神とされており、温泉神社によく祀られる。 仏教からみるとこれが観音様に読み替えられるのは既述したとおりである。




大田原神社は古くは温泉神社であり、戦国時代に大田原氏が城下の鎮守として崇敬し、のちに大田原神社の称号を与えたものだ。それ以前は、地域内の序列でいえば那須湯泉神社の下宮という位置づけにあり、ひろく那須国一帯に分布する温泉神社群の中核的な存在であった。その関連があって、九尾の狐伝説では三浦介、上総介(→九尾の狐を退治したとされる武将)が殺生石に向かったとき、ここに参詣したとの伝承がある。




温泉神社という切り口でみると、奥宮にあたる那須湯本温泉の発見は日本にまだ年号がなかった西暦630年頃とされている。その神霊を祀った湯泉神社は素朴な自然神信仰に基づいて成立しており、実は記紀神話と直接のつながりはない。

おそらくはこれが神社信仰の芯の部分で、そこに平安草創期の蝦夷征服事業の一段落後、皮をかぶせるようにヤマトの神、すなわち大己貫神、小彦名神が乗ったのではないか。古文書の焼失がなければ、そのあたりの経緯が物語として語り継がれていたかもしれず、まことに惜しい気がする。

※写真は那須:殺生石の賽の河原



 

■移転する神社と瀬尾宮鷹麻呂の謎




ところで大田原神社は現在でこそ大田原城北方の龍体山(=現在地)に建っているけれども、これは明治時代、日本のナショナリズムが高揚していた日露戦争の開戦年(明治37年:1904)に 移転、再整備されたもので、それ以前は蛇尾川の北側、中田原にあり長らく荒廃した状態にあったという。

その詳細な位置は神社の近世史を紐解いても明確にはわからない。ただ中田原で神社と言えば小駒崎稲荷神社があり、神社の文法からみて中田原ではここ以外に鎮守社を建立するのに適した高台は見当たらないので、筆者はここが旧大田原神社の跡地ではないかと思っている。 この神社は幕末の万延元年(1860)に書かれた下野掌覧によると小駒崎村の湯泉大明神と記されており、大田原神社も元は湯泉大明神なので、同じ敷地に隣接もしくは摂社として同居していた可能性は・・・まあ、なくはないかなというところだ。

 

その小駒崎稲荷神社(≒旧大田原神社?)は大田原城の丑寅の方向=鬼門に位置する。伝承では大田原城築城時には大田原神社は城内に祀られ、のちに城下の民衆の参拝の利便を考えて中田原に移した・・・とされているけれども、筆者的には移転は鬼門封じの意図が主で参拝の便は後付けの理屈ではないかとの所感をもっている。

伝承の内容は一切無視して地形だけみれば、この付近で神社を建立するのに最適な独立丘陵は現在の大田原城のある城山がもっとも手頃で、そこに城が築かれてしまったので神社は半径1km圏くらいを何度か転々としたと考えると、まあ確かにそうかも……くらいには思えてくる。




筆者はこの小駒崎稲荷神社が気になったので、明るい時間帯に別途訪れてみた。お世辞にも隆盛しているような感じはけいけれども、ちゃんと注連縄が飾られて氏子衆がいることがわかる。参道は長く、石段が100mくらい続いている。




この神社が位置しているのは大田原城から蛇尾川を挟んで対岸にある分離丘陵の北端で、現在は道路が通って切通で分断されているけれどもかつては "龍頭山" と呼ばれていた。現在の大田原神社のある "龍体山" と対を為す名称で、川を挟んでワンセットとなっている。




参道を上っていくと社殿があるのだが、建物にくらべて敷地が広く、かつてはもっと大きな建物があったか、なにかと同居していたのではないかとの印象をうける。現在は静かな稲荷社である。




ところで大田原神社の稿なのにこんな脱線めいた話題を振ったのは、小駒崎稲荷神社よりも参道中腹にある一群の墓所のほうに興味をそそられたためである。墓所の主は瀬尾家という旧家で、墓に隣接して碑文が建っており、それによるとここにはかつて "瀬尾神社" というのがあったらしい。大田原神社の他にもう一社あったのか。




この神社の記録はちょっとウェブを検索したくらいでは出てこない。雰囲気からするとこの旧家の祖先を祀った小社なのかな……と思えるのだが、それよりも書かれていた碑文に筆者は大変な興味をひかれた。



なんと九世紀前半に瀬尾宮鷹麻呂なる人物がこの地に下向して地方長官の職に就き、朝廷の領土拡張のために働いたとある。その子孫がいまでもここで墓苑を守っていたとは。

九世紀前半(西暦800年代の前半)といえば神社大量増殖期でもあり、大田原神社の創建されたという大同二年(807)はまさにこの時期にあたっている。おお、なんだかワクワクしてくるではないか……♪ ヽ(・∀・)ノ

……が、今のところこれ以上の情報はないので、この瀬尾宮鷹麻呂と大田原神社に関係があるか否かについては何とも言えない。地方官吏の長であるなら宗教政策にも一枚噛んでいそうなものだけれど、勇み足は控えておこう。そのうちゆっくり、調べてみようと思う。




■時代は下って明治の頃




……おっといけない、また余分な雑談が過剰になって筆がとまらなくなりそうだ(笑)  このへんで正気に戻って(?)神社の風景に話を戻そう。

大田原神社が現在の位置に社殿を構えたのは日露戦争の年である。 現在と同じように朝鮮(大韓帝国)がフラフラと日和見な動きをして国際紛争の火種をつくっていた時期であり、まったく同じ構図で日清戦争を戦ったほんの10年後に、日本は今度はロシアと戦う羽目に陥った。このあたりの経緯をみると千年単位で朝鮮というのは日本にとって疫病神でしかないな……との感慨を得るけれども、本稿の意図とは外れるのでここではとやかくは言わない。

 


開戦は明治37年(1904)の2月8日のことで、実はこのとき全国で神社の整備や拡張が急速に進んだ。 というのも、 当時の日本軍は徴兵制であったから、どんな田舎の町や村にも出征する兵隊さんがいたからだ。 国力が10倍もある大ロシア帝国の強大さは当時の国民もよく理解しており、ゆえに、出征する兵士の無事を祈願して、地元の鎮守社の手入れや改修が大急ぎで行われたのである。

大田原神社の整備もおそらくその一環として実施されたのだろう。 神社の立地が護国神社(現在は震災で倒壊して更地になっている)に隣接しているのもその流れを汲んだものではないかと筆者は推測している。

 


そのような経緯があるので境内にはもちろん日露戦争の碑がある。 題字は陸軍大将乃木希典、撰文は大田原一清(大田原藩の最後の藩主)によるもので、明治39年の建立である。 この碑も東日本大震災で倒れてしまったが、現在は修復されている。

※暗くてよくわからなかったので昼間撮影の画像で申し訳ないw




ところでお焚き上げの炎に照らされながらふと境内を見やると、なにやら小さな祠が並んでいるのに気が付いた。




見れば……おお、こんなところに護国神社が!

……なるほど。旧本殿は地震で倒壊してしまったけれども、神社そのものが消えてしまった訳ではないのだな。いつの日かまた立派な社殿が出来る日まで、維新の志士各位にはここで静かに鎮まっていただければと思う。




■年越し




さてそんな感じでゆるゆると過ごしている間に、人が増えてきた。

筆者も列に並んで年越しのスタンバイをしていると……やがて、ドーン、ドーンと太鼓が響いて年が明けた。平成31年の到来である。

 

ぞろぞろと初詣の列が動き始め、「あけおめ〜」などの声がいくらか響く。しかし大田原神社の年越しはとても静かで、あまり騒ぐ人はいない。ここはそういう性格の神社なのだろう。

やがて筆者の順番が巡ってきて、二礼二拍手一礼。ひとまず武運長久とお財布事情の安寧と家庭の平和を祈り、ついでに反日国家の滅亡を祈願。
 



その後お札とお守りなどをGETしたのだが写真を撮るのを忘れたのでそのヴィジュアルは無しで申し訳ない(笑)…まあとりあえず、ゆるゆると平穏な年でありますように。

……というか今回も余談だらけで先が思いやられるな(笑)

【完】